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JF6RSK アマチュア無線局 紹介

















本耶馬渓町 紹介
耶馬渓橋、青の洞門、競秀峰、羅漢寺

自宅から300mの位置にあるオランダ橋、今も生活道路として使用しています。幼いころから通学、通勤に毎日利用しています。
50年に1度の大雨の水害で橋の欄干が流され、修復されました。
50年前に流された橋の欄干は我が家に有ります。(下記参照)オランダ橋の向こうには我が家があります。春夏秋冬の味わえる故郷の風景です。

ギャラリー

耶馬海橋 秋景色
耶馬渓橋 通称(オランダ橋)8連アーチ 秋景色
耶馬海橋 冬景色
耶馬渓橋 通称(オランダ橋)8連アーチ 冬景色
耶馬海橋 春景色
耶馬渓橋 通称(オランダ橋)8連アーチ 春景色
耶馬渓橋は、山国川に架かる石橋で、青の洞門の下流約500m、荒瀬井堰の下流にあり、その橋長は116mで、8連アーチ石造橋としては、我が国唯一のものです。

 景勝地「耶馬渓」の景色とあいまって、自然の中の構造物として独特の美しさを漂わせています。観光道路として架橋されましたが、当時の時代的背景から考えるに軍事面で、日出台演習場への要路の考慮もあったと言われています。また地元曽木地区の共有林を売却し、橋の建設費に当てたと言われています。                


青の洞門
山国川のほとりの競秀峰のすそに掘られた青の洞門。今は車が通るトンネルになっているが、昔の素掘りのトンネルも一部残っている。
菊池寛の小説「恩讐の彼方に」でよく知られる話が残っている。その話は、人を殺めてしまった償いに難所であったこの地にトンネルを掘ろうと決意した禅海が、ノミとツチだけで21年かけて完成させたと言う話である。


青の洞門 一望

  実話に基づく小説  「恩讐の彼方に」菊池寛 

           禅海くん 
             ゆるキャラ 禅海くん   
禅海和尚

青の洞門 手彫り

競秀峰

明治27年(1894年)2月、 中津に20年ぶりに帰郷した福沢諭吉が、旧中津藩主奥平家の別荘を建てたいと耶馬溪を散策、激賞した際に、この競秀峰の山々が売却されることを耳にして 「万一、心ない人に渡り天下の絶景が損なわれては取り返しがつかない」 と一帯の土地を購入する決心をしました。そして、自分の名を表に出さず、複数の土地所有者から一帯の土地約1.3ヘクタール(13,000㎡)ほどを少しずつ目立たないように3年がかりで購入していきました。

 これはナショナルトラスト運動の先駆けであり、今から120年ほど前に自然を守る行動を起こされた福沢諭吉の先見の明と行動力がなければ、今のこの美しい競秀峰はなかったはずです。


競秀峰

耶馬溪橋 欄干(大正十二年)
右側の写真は当時の欄干
これまでに橋は二度修復をしています。台風で大洪水となり、当時の欄干は全て流されてしまい川底に沈んでしまいましたが、何十年もの時を刻んだ貴重な欄干です。
大正十二年3月竣功と刻まれた本物の一品です。
耶馬渓橋 社旗の欄干1

耶馬渓橋 初期の欄干2

羅漢寺
羅漢寺は約1300年前の大化元年(645年)にインドの僧、法道仙人が金銅仏を持参しお寺を始められたのがこのお寺のはじまりであると伝えられています。全国羅漢寺の総本山で由緒ある寺です。なお、本寺は昭和18年に火災で焼失、現在の本堂は昭和44年に再建されたものです。
 羅漢寺は羅漢山の中腹にあり、岩壁には無数の洞窟が口を開き、山門も本堂もその中に埋め込むように建っています。そして洞窟には3700体以上もの石仏が安置されているそうです。その中でも照覚と逆流建順が刻んだ無漏洞(むろどう)の五百羅漢や室町期に普覚禅師(ふかくぜんじ)という高僧が刻んだという千体地蔵と十王尊を刻み安置したとされる千体地蔵などが有名です。
羅漢寺